殿様街道2(4.9km)
2025/4/3
 2回目は、柏井町交差点角の大楠から森林公園の運動施設内を通過後、瀬戸市の水野団地内を経て東光寺門前まで歩く。森林公園の運動施設の整備や住宅団地の造成で殿様街道の大半は消滅しているようだ。しかし、1888〜1898年と現在の地理院地図を重ね合わせてみると柏井町交差点北側や、水野団地内など昔からあった道を拡幅整備して現在の車道になっている区間もある。また、運動施設北側の山林内には、今は車両通行禁止になっているが昔の道を舗装して車道として利用していたと思われる区間もある。測量技術レベルの低かった明治時代中頃の地図上の位置は、現在の地図に比べて数十メートル程度の誤差はあると思われるが昔の痕跡を探しながら殿様街道らしき道を辿ってみた。
  
1888〜1898年(旧地図)と現在の地図の比較(「今昔マップ on the web」より)
明治時代中頃の地図の道筋は、殿様街道と呼ばれた道筋と大きくは変わっていないと考えられる
旧地図ではスタート地の三叉路から300m程北で北東へ分岐した道が、ため池の南を通過し谷筋に沿って村境の柏井峠まで続いている
旧地図左下の標高123m附近の村境に柏井峠があり、殿様街道は北側丘陵の谷を下り集落内で右折して東光寺へ向かったと思われる
水野団地内の地名「みずの坂」の東を北上する道(本郷線)は、「みずの坂4」で川を渡って国道155の交差点へ続いている
旧地図でも本郷線の昔の道が現イオンの北で西寄りにカーブ゙している所で川を渡って北側の集落に向かっている
 以下の資料によれば、殿様街道はこの川と北側集落東の川、水野川の3か所の橋を渡るルートとされ、道筋は現在も一部変更はあるが残っていると言えそうだ
<資 料>  歴史文化基本構造推進事業 瀬戸の魅力再発見「水野の殿様街道を歩く」<瀬戸市のHP> より
   殿様街道
 (前略)この墓参りの道を「殿様街道」と呼んでいるが、江戸時代の文献や絵図には「殿様街道」という文字はまったく載っていないので、街道の公式名称ではありません。例えば尾張徇行記には「定光寺街道」および「水野街道」と書かれ、中水野絵図では「往還通り」、新居村絵図では「御成筋」と表示されています。”尾張の殿様が、ご先祖さまのお墓参りに通る道”というので、地域の人々が勝手に「殿様街道」と名付けた愛称だと思われます。「殿様街道」という言葉は明治以降になって一般的に使われるようになったのでしょう。
   殿様街道の現況
 昔から道路は生活の手段として重要ですから、時の移り変わりとともに造り変えられ改良されて来ました。殿様街道も同様に改造が重ねられ大半は姿を消してしまいましたが、それでも昔の道筋は所々に現存しています。
 寛政4年(1792)の中水野村絵図(略)で殿様街道筋をたどると、新居と中水野の村境にある柏井峠を越えて北へ進むと、海老弦(えびびづる)川の上流に「一ツ橋」が、下流に「唐沢橋」が描かれ、水野川に架かる水野大橋を渡ると東光寺門前へたどり着きます。一ツ橋と唐沢橋は現存しませんが、水野大橋は現在も残っています。現在の水野大橋はコンクリート製ですが、昔はもう少し下流に土橋が架かっていたものと思われています。
 臨済宗妙心寺派の東光寺には、源敬公廟へ参詣する藩主一行が、休憩所として度々利用した記録(文書)が残されています。
   参詣行列の休憩所(薬王山東光寺)
 薬王山東光寺は、中水野村豪農(大庄屋)桜井伊左衛門家の先祖の七郎が、永正元年(1504)丹波(現 京都府)から雪心(せっしん)宗白(そうはく)という僧を招いて創建したお寺です。臨済宗妙心寺派の禅宗寺院でかつては定光寺の末寺でした。
 (中略)歴代藩主の参詣行列は険しい石坂や横笛嶺へ向かう前に休憩する場所として東光寺を利用しており、享保16(1731)七代藩主宗春(むねはる)、文化8年(1811)十代藩主斉朝(なりとも)、嘉永6年(1853)十四代藩主慶恕(よしくみ)、安政3年(1858)十五代藩主茂徳(もちなが)の立ち寄った記録が東光寺に残されています。
柏井町交差点角の大楠横の説明看板
 江戸時代に、尾張の殿様の行列が通ったことから名付けられた道です。尾張初代藩主徳川義直は、瀬戸の定光寺に葬られました。その後、歴代藩主たちは墓参りのため、この道を定光寺へと向かったのです。また、名古屋城を築いた時に、石垣を造るための石を運んだという記録もあります。
 新居町八瀬ノ木から進んできた道は、濁池の堤防を通ってここまで来ました。きっと殿様たちも、濁池の景色を見たことでしょう。この先の森林公園乗馬施設に、昔の道の一部が残っています。
                                     尾張旭市教育委員会
<柏井町交差点角の大楠横の説明看板>
説明には「森林公園内の乗馬施設には、昔の道の一部が残っています」とあるが…
<濁池からの道と森林公園通りとの三叉路>
濁池からの道は大楠の北で森林公園通りに合流する
旧地図を見ると、森林公園通りも昔からの道を拡幅整備したことが分かる
<森林公園通りからの分岐>
新旧地図共に三叉路から300m程で北東へ分岐するがこの道は行き止まる
南側100mにも並行する道がありこちらが昔の道だったの可能性もある
  <愛知用水>
斜めに分岐する道を進み愛知用水を渡ったが
現在は三叉路の北100mを右折しても暗渠上を横切り南側の道に合流できる
但し、旧地図には道筋が示されていないので分岐点だったかどうかは不明

<老人ホーム先の通行止め>
この先は昔のため池の堤防の下とも思われる所に突き当たるので
昔の道だったとしてもどこかで並行する南側の道に合流しなければならない
<並行する南側の道の突き当り>
愛知用水東側まで戻って三叉路を南進
南側の道とのT字路を左折して進むと舗装が途切れて山道になり車止めあり
<森林公園施設の運動広場西側の車止め>
歩行者は通行可能でこの日も散歩している人々を見かけた
但し、森林公園敷地内は規制が厳しく「立入禁止」の看板が目につく
<ため池を埋め立てた上に整備された運動広場>
旧地図に示された道はこの運動広場の南寄りの位置を北東方向へ延びている
<運動広場の南端>
東進後北へ折れて弓道場の西側へ
<「立入禁止」の看板が立つ弓道場西側>
昔の道はこの辺りから弓道場を横切り
更に東隣の野球場の中を通っていたと思われる
<野球場
ため池の南側沿いに進んできた道は弓道場辺りから
池に流入する小川に沿う道となり野球場の中央辺りを横切っていたようだ
<運動公園ハウスの南側の小川>
現在は殆ど流れていないがこの南側沿いに昔の道があった思われる
小川上流は車道(市道)を暗渠で横切り森林内の浅い谷底の涸れ沢に続く
沢の東には並行した細い舗装路があり、この道が繋がっていたと推定できる
<乗馬施設の厩舎南側の道>
大楠横の説明看板に「昔の道の一部が残る」と記されていたので
小川南側の乗馬施設附近で探したが面影らしきものは発見できなかった
厩舎の南の道を進んで小川上流部附近の市道の乗馬施設出入口へ
<市道にある乗馬施設出入口>
向かい側のゲートの左(西側)が浅い谷になっている
<車止めのゲート>
施錠されているが歩行者は通行可能
谷底の沢から20〜30m東にゲートから続く舗装路が並行する
昔の道を少し広げて舗装しただけで以前は車が通行していたと思われる
<狭く曲がりくねった道>
地図を見ると沢に添うように緩い坂道が続いている
この先の旧村境に柏井峠があったということからここが柏井坂と思われる
本日の行程で唯一昔の道の雰囲気を感じられた区間だ
<水野団地側のゲート>
歩行者通行可能の対策が施されている
道はここで市境の県道に合流するが現在の地図にも
ゲート附近から少し北の幼児広場の近くまで続いている道が記載されている
<やまて坂3丁目交差点>
瀬戸環状線を北へ100m附近の標高がいちばん高く
その先や東側は下るので旧柏井峠はこの辺りになりそうだ
北方向へ少し下った東側に幼児広場あり
<昔は道になっていた幼児広場>
この先は北東方向へ延びる高層住宅の私道となっている
旧地図の森林公園から北東へ続く道はここを通っていたと思われる
(今昔マップの1980年の地図では道が記載されている)
<高層住宅南側の私道>
幼児広場から戻りやまて坂3丁目交差点を左折、本郷線を進み私道入口へ
新旧の地図を重ねると森林公園から北東方向へ続く道は
ここで本郷線に交わり、本郷線は南へ延長されている
<イオン南東角の交差点>
合流点からこの辺りまでは新旧の地図上でも道筋が一致している
水野団地を造成する際に森林公園からの道を利用をメイン道路として生かし
現イオン北で西にカーブしていた道筋を直線化して本郷線(市道)としたようだ
<海老弦川と本郷線の海老弦橋(1987年竣工)>
イオンを過ぎると本郷線は、みずの坂地区の谷筋を北へ流れる海老弦川を渡る
資料にある一ツ橋は旧地図を見るとこの少し上流にあったと思われる
<本郷町東交差点>
イオンの交差点からの新旧地図上の道筋のズレはここで再び一致
殿様街道は集落内の交差点を右折して唐沢橋を渡ったと思われる
橋の名前から海老弦川が合流後の唐沢川に架かっていたと考えられる
<唐沢川と水野橋>
海老弦川は唐沢川に合流してすぐにこの橋の下を流れている
資料では「海老弦川の下流で唐沢橋を渡り、昔の唐沢橋は今は無い」という
旧地図にも唐沢川を渡る道は外になく水野橋附近にあったのかも知れない
<中水野町交差点>
水野橋を渡って100m程で左折して北東方向へ進む道へ
<昔の道を拡幅整備した車道>
道沿いには農家と思われる広い屋敷の住宅が見られる
<水野大橋>
橋を渡って右折すると北側にある東光寺の門前に着く
<東光寺>
歴代藩主の行列が険しい石坂や横笛嶺へ向かう前に休憩した
<メ モ>
  殿様街道2の区間は、広大な森林公園や大規模住宅団地造成などで殿様街道の面影が殆ど失われているので、歩行計画作成にあたって綿密に下調べをして想定される道筋を決めて実施した。
・ 資料によれば江戸時代末期の1858年に藩主の墓参りの記録があり、その20〜30年後に作成された国土地理院地図の地形や道筋も人為的な開発の痕跡が見られず当時に比べて殆ど変化がない考えられる。旧地図では、標高120m程の新居と中水野の村境の柏井峠から南東へ下る丘陵内の浅い谷底の沢沿いの道が現在の森林公園通りまで続いていることが分かる。峠の北東側は、丘陵の谷筋の道が北へ進み北東へ流れる海老弦川を横切って中水野村の集落まで続いている。殿様街道はこの道だったと思われる。
・ 1934年に森林公園が開園し次第に施設の拡充整備が進められ、1967年からは瀬戸市内の丘陵に水野住宅団地が造成された。現在のイオンの東を通る本郷線は、柏井峠から下った先の海老弦川沿いにあった道を拡幅直線化し、南のやまて坂3丁目交差点まで延ばして団地内のメイン道路にしたと思われる。旧地図ではイオンの北辺りで少し西よりを通っていて今の海老蔓橋の少し上流で道筋が川を横切っていることが分かる。一ツ橋はここに架かっていたようだ。
・ 現在は本郷町東交差点を直進して本郷橋を渡る広い道があるが、道筋の変更を経て現在に至っているので当時は細くて行列には耐えられなかった可能性もある。資料にあった1792年の中水野絵図には、川の上流で一ツ橋を渡り下流の集落内で唐沢橋を渡ったあと、曲折する道を進んで水野大橋を通る道筋が描かれている。一ツ橋から集落へ至る道は旧地図の表記では一本だけで外になく集落内で右折して唐沢川を渡ることになり位置的には現在に水野橋に近い。国道155の整備で昔あった唐沢橋を無くして水野橋にしたことも考えられる。
・ この区間の殿様街道と思われる道は、拡幅や舗装、直線化が図られていて面影を感じ難いが、森林公園の運動施設内を除いてその道筋が現在も残っていると言って良さそうだ。
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